ケニア

ケニアの概要

紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。東アフリカに位置するケニアの領土には、前期旧石器時代以来、人々が居住している。紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した。7、8世紀頃には、アラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までにケニア沿岸部には、バンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年頃に明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。その後、1828年にオマーン帝国のスルタン・サイイド・サイードがモンバサを攻略した。

イギリスの進出

19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA) により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年‐1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国(1856年 – 1964年)に根拠地を移した。1902年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のケニア植民地となった。

独立に向けた動き

反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ二つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、トム・ムボヤが率いるKANUが主導となる。

独立後

1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中にアフリカ社会主義を掲げて親ソの姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。後にKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタの下でケニアは経済的に成長を遂げた。